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釧路市の丹頂鶴

連載コラム


​江郷繁樹の独断と偏見で 19

​江郷繁樹のあれこれ

星

金光大神と天地金乃神ってどんな神

金光教とは

金光教は「 天地金乃神 生神金光大神 」を信奉する。

 江郷繁樹の独断と偏見で 19 

金光教(こんこうきょう)の教祖金光大神(こんこうだいじん)様の

ご生涯や金光教の成り立ちについての連載コラムです。

天地と繋がっているいのち(生命)・13

     しかしながら、文治は、「こころ實正(ジッショウ)、神仏に身まかせ」で、妻には、外に出て仕事をせよ、と手まねをもって指図していた。 身内の者も、みな来て「麦刈りの時期で、小麦打ち」等を手伝いしてくれていたが、これらの人々も、文治の病状が気になり、仕事の手はにぶりがちになり、「文治は、とても助かるまい」と嘆く者もあり、「こんなことになるのなら、卯之丞を、育てにゃよかったのう。死なれては、辛いものじゃ」と嘆く者もあり、「仕事どころか」と、塞ぎ込む者もあった。 それでも、「仕事だけは、何でも早うかたづけて、神様におすがりするよりほかに、方法(シカタ)がなかろう」と言うことになって、仕事の片付けをしてしまうことになった。
 29日の夜、新しく築(キズ)いた家の、上の間に、身内・親類一同が集(ツド)い、古川の、新屋(シンヤ・古川の家の分家をしたのだろう)の治郎(八百蔵の2男、文治の妻・とせの弟)を石鎚(イシヅチ)神(金神)の先達(センダツ)に立て、病気平癒の祈念をした。
 すると、治郎に石鎚神が乗り移り、「建築(フシン)、移転(ワタマシ)につき金神に無礼いたしておる」と、荒々しい声で、おさがりがあった。
 これに対して、古川八百蔵(妻・とせの岳父<シュウト>)が、なにを馬鹿な、(文治の日頃の生活を慮<オモンカバ>って)、当(川手)家において、金神様にお障りはない、方角をみて建てた」と勢いよく応酬した。当時、かかる場合の応酬(ヤリトリ)には、向かう意気が強くなければならぬ、と、せられていた。 

     石鎚神はさらに、「そんなら、方角を見て建てたのなら、この家は滅亡になっても、亭主は死んでも、大事ないか」と、詰問された。
 さすがに、八百蔵は、返答に窮し困り果てた。
 神々を一心に念じていた文治は、最初の「建築(フシン)・移転(ワタマシ)につき」とあるとの神の声に、ハッと胸をつくものがあり、心で神に詫びていたが、神と岳父(シウト)との応酬(ヤリトリ)に、いきをこらして、耳をすませていたが、岳父(シウト)が、「金神様にお障りはない」と断言するのを聞き、「なんということを、言いなされるであろうか」と、文治は恐れ、おののいていた。
 すると、文治は、喉痺(ノドケ)で、もの言われずだったが、なんとなく喉がひらけるのを覚え、病床から、「ただいま、氏子の申したのは、なんにも知らずに申したのでございます。」と声が出た。続いて「私、戌の年、年まわり悪く、建築(フシン)してはならぬ、と申されたのを、押してお願いし、方角をみ、日柄を改めて頂きまして、何月何日と申して、建てさせて貰いましたが、もとの狭い家を、大家(オオイエ)に仕(ツカマツ)りましたので、どのご方角へ、どのようなご無礼を、仕(ツカマツ)っておりますことやら、凡夫で、あい分かりません。」「しかしながら、ご方角をみて、それで済んでいる、などとは、毛頭(モウトウ)思うておりません。以後、ご無礼のところは、ひらに、おことわり申し上げます」と、真(マコト)をうちだして、ひたすら、詫びに、詫びた。
 すると石鎚神は、「戌の年はええ。よし、ここへ這(ハ)いながらでも、出てこい」と言われた。文治は、言われるままに、寝床から抜け出し、先達の前に、這(ハ)って出た。すると、「いま言うた氏子の心得違い、その方は、行き届いておる。正月朔日(ツイタチ)に、氏神の広前に参りきて、手を合わせて、どのように申して頼んだか。氏神はじめ神々は、みなここへ来とるぞ。『戌の年、当年42歳、厄年。厄負け致さぬように御願い申しあげます』と申して頼んだであろうが。戌歳男(イヌノトシオトコ)は、今度は熱病を患う番(バン)てい。熱病では助からんで、喉痺(ノドケ)に、神がまつりかえてやったのぞ。神徳を持って、神が、助けてやる。吉備津(キビツ)宮(グウ)に日供(ニックウ)を獻(ケンジ・たてまつっ)た時に、2度もおどうじがあって、もの案じを、しながら戻ってきたであろうが。病気の知らせを、致してやったのぞ。信心せねば、厄負けの歳(トシ)。五月朔日、験(ゲン)をやる。金神・神々へ、禮(レイ)に、心経百巻、今夜あげい。妻は、石鎚へ、衣装を着替えて、7日のあいだ、ご馳走に、香・灯明をそなえい。お広前へ、五穀をお供えあげい。日天四が、戌の年の頭の上を、昼の九ツには、日々、舞うて通ってやっておるぞ。戌の年、戌の年、一代、まめで(健康)で、米を食(ク)わせてやるぞ」とて、先達の治郎の言葉が止まった。
 まことに不思議な光景であり、文治はもとより文治の健康を願った親族一同にとっても、はじめての経験であったことだろう。
 こうして、文治は神の霊験(レイケン)に浴し、しだいに快(ココロ)よくなって来ていて、5月4日には、端午の節句を迎えるために、自(ミズカ)ら粽(チマキ)を結(ユ)いなどして、一家は、さわやかな五月(サツキ)の空のように、よろこびのなかに、端午の節句を祝う事ができ、文治が生き返った感激は、たとえるにものなき有様であった。
 (ここで言う粽(チマキ)は、「[もと茅(チガヤ)の葉で包んだことから]米や米の粉などで笹の葉・竹の皮などで包み、藺草(イグサ)で三角形に巻き上げて蒸したもの。中国で、泪羅(ベキラ・湖南省北東部を西流し、湘江下流に注ぐ川。楚の詩人屈原(クツハラ)が石を抱いて投身した川)に身を投じた屈原を弔うために五月五日に餅を投じたという故事から端午の節句に食べる習慣がある]」のことですが、ここでは、「『建』柱の上下が縮まり丸められたもの。また、その部分。鎌倉時代に禅宗建築と供に入り、寺院建築に用いられた。粽形(ガタ)。(大辞林・三省堂参照)]」といわれるもので、食べる粽(チマキ)ではない。
 文治は、増築に伴い、そのことを覚えたか、日頃の社寺参拝で覚えていたのか、いずれにしても、どんなものにも、興味を示していたようだ。それで、自(ミズカ)ら粽(チマキ)を結(ユ)いなどと表現して、端午の節句には、粽を、病気回復のおかげを、神様にお礼するとともに、家族と一緒に粽も食べたことだろう。)
 その喜びが、今の世にも伝わってくるようです。
 後年、文治が、天地金乃神様から、神は声もなし、形も見えずだから、神を助けると思って、家業をやめ、天地金乃神の働きを、参ってくる人々へ語ってくれ、と頼まれ、それを受けて、いわゆる、神から、生神金光大神という、ご神号を与えられ、布教に専念するようになってから、1874(明治7)年11月23日に、天地金乃神様から、お知らせを受け。
 生神金光大神、生まれ所、なにか(あれこれ)と古いこと、前後とも書きだし、と仰せつけられ候。と言われるまま、「金光大神覚書(オボエガキ)」という書(ショ)を書(カ)かれています。
 「金光大神生まれ所は、同国同郡占見村。香取千之助孫。父は十平、次男。氏神大宮大明神祭り日、暮れ六つ前に生まれ、男。父酉の年38歳の年、母は卯の年32の年。1814(文化11)年、甲戌(キノエイヌ)8月16日、戌の生まれ、香取源七(文治のこと)と名つけられ。母は益坂村徳八娘、おしもと申し。と書きだしている。(西暦は、全て、筆者が付けた。)
 この事柄を、順次書き綴っていて、1855(安政2)年に上記の、「粽を結い」と、書き綴ってきた時に、ここまで書いてから、おのずと悲しゅうに相成り候と、書き綴った時、「金光大神、其の方の悲しいのでなし。神ほとけ、天地金乃神、歌人なら歌なりとも詠むに、神仏には口もなし。うれしいやら悲しいやら。どうしてこういうことができたじゃろうかと思い、氏子が助かり、神が助かることになり、そう思うて神仏悲しゅうになりたのう……。…、また元の書き口を書けい。と神様も、武者震いをされていたようだ。
 この覚書は、上記のごとく、1874(明治7)年11月23日から、1876(明治9)年5月28日まで書き綴っています。
 それにしても、文治さんの記憶力、もの覚えの良さ、確実さはどこから来ているのかと思っていたが、文治は、自ら、1857(安政4)年10月13日から、1883(明治16)年9月21日まで、名は、文治から金光大神と変わっているが、「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする、金光大神ひれいのため。書きとめ」と、書き終えている。「お知らせ事覚帳」(に自らのことを書き綴っていて、明治9年に、もう書き直すこともなくなったようで、覚書の方は明治9年で書き終えているが、その後、じつに、1883(明治16)年10月10日、ご帰幽になる19日前迄のことを書き綴った。
 後年、この書「お知らせ事覚帳」があることが解り、1983(昭和58)年教祖様、ご帰幽後100年祭を期に、金光教本部から、から「金光教教典」の中に組み込まれ刊行された。
 私は、この2冊の書が、文治の(金光大神)の自叙伝だと思っている。
 日本では、自我の自覚めが遅く、経済学者の河上肇氏が、日本で自叙伝を書いた初め、と言われているが、それより何十年早く、学者や知識人でなく、庶民の手によって、自叙伝が書かれていた。
 参考までに、この教典には、順番に「金光大神御覚書」「お知らせ事覚帳」「金光大神御理解集、○○氏の伝え」等々が収められている。
 

     以後も、金光大神にふれて、つづく。

厄除け粽(ちまき)

  文治はそれほど、神社・仏閣に、意を尽くし、お礼をし、不行き届きのお詫びをし、42歳の2つ子で、木札を収め、お願いしていたのに、4月25日の午後になって、何となく身に不快をおぼえ、奥の間(納戸)に横たわった。  翌26日には、病勢は進み、かねて懇意にしていた、占見(文治の親の家がある地区)の医師、柚木隆碩(ユノキ・リュウセキ)に診察をこい、薬につとめるとともに、神仏への祈念にもおこたることがなかった。

    医師から、喉痺(ノドケ)と診察された。

   ものいわれず、湯・水も、喉を通らぬようになり、ついに、医師から、「九死一生」と宣告された。

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コラム
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- 金光教との繋がり-

 私は、1964(昭和39)年5月15日、金光教学院に入学、1965(昭和40)年4月20日、金光教学院卒業、すぐに、金光教教学研究所の研究生として、半年間金光の地に居ることになった。
 この時期は、1963(昭和38)年4月13日に、3代目教主様と言われていた、金光攝胤様ご帰幽になられ、5月20日に本葬<教葬>が仕えられていた。
 この時、私は、東京・小金井にある、金光教東京学生寮にいて、寮監から情報を聞かされていた。
 学院に入学した年の6月19日に、3代目教主様夫人、金光キクヨ様がご帰幽になり、

7月20日に本葬<教葬>が仕えられ、学院生として、お葬儀のお手伝いをさせて頂いた。
 翌年、学院を卒業し、研究生として残っていた、(昭和40)年5月25日、金光教教監としてご用に立たれ、教祖伝を学院講師として教鞭を執っていた、高橋正雄先生が帰幽になられ、

6月20日に本葬<教葬>が3年続けて仕えられ、この時、研究生として、祭員<賛者>のご用奉仕をさせて頂いた。この時の高橋正雄先生を、祭員として見送ることができる感動は今でも覚えている。
 金光教は、この3年続いて教葬が仕えられたことで、一時代が終わった、と言われている。


 私は、3代目金光様には、二回お目にかかったことがある。二回とも、教師子弟の集いであるが、高校二年生の時、父から、夏休みの二泊三日間、の日程で、高校生の集うというのがあるが、行ってみないか、と言われ、パンフレットをもらった。田舎の高校であり、アルバイトをするところも無いので、行ってみようと思った。
 行って驚いた。百二十人以上もの高校生の男女が来ていて、お広前という所に、整列し、係の人が、お結界と言う所に行き、お取次をしている相手の人が、三代金光様と言われる、80歳に近いだろう、お爺さんが座っていた。
 高校生とはいえ、参加者のほとんどは、三代金光様のことは良く知っていたが、こちらはただ、唖然とするばかりだった。
 集いの初めは、係の人が、集いの趣旨や、日程等説明があり、すぐに、20名ぐらいずつ班別懇談に入った。初めは、自己紹介等など、風呂に入り、食事をし、その後も懇談。就寝。明日の朝は、三時半に起きて、三代金光様がお出ましする。3時30分にお迎えしますので、早く寝てくださいと、伝令が来る。私は自慢じゃないが、3時30分等という時間などは知らない。
 それでも、皆が起き、起こしてもらって起きたのだろう。顔を洗い着替えたら、外に整列。本部境内の、三代金光様がご自宅から、本部広前にお出ましになる道の前で整列。
 そこに、三代金光様が、リヤカーを改良し、人が乗れる箱のようなものに乗って、前を照らす提灯を持ち歩く人の後に、リヤカーを押す人、予備の人、二人に支えられて、やってきたのには驚いた。そのリヤカーに乗ってる人を、お出ましを向かえる人達が、沢山来ていて、神様を拝むように、皆がみな拝んでいる。
 そして、本部広前という神殿に入っていくと、板戸がガラガラと明けられ、天地金乃神を祀る、神殿の前の真ん中に、かがまってご祈念をしているのだろう、じっと動かない。25分もそうしているのだろうか、頭を上げ、四拍手をして一礼をして立ち上がり、神殿に向かって、左側に霊殿があり、そこまで歩いて、一礼をし、その表面に座り、一礼四発手をして、かがむ、五分ぐらいで、頭を上げ、四拍手をして、一礼をし、立ち上がり、
今後は右に歩き、神殿の前では、軽く頭を下げ、また頭を上げて、お結界という所まで歩き、そのお結界に座る。立った姿勢は、畳に対して、カタカナのユかコの字だ。昨日も、この金光様という人が、今朝のご祈念をしていたように、ご祈念を終えてお座りになっていたのだろうと思うと、ちょっと、……だった。
 高校生の時、こんな体験をし、この集いの参加者と、今でも繋がっている人もある。

つづく。

金光教釧路教会では、宗教、宗派を問わず、どなたでも参拝できます。

入信・脱退に関わる規則や拘束(特別な献金や修行の義務)はありません。

また、葬儀や結婚式、交通安全祈願など各種祭儀も行ってます。

​お気軽にお問い合わせください。

お問い合わせ時間 11:00~18:00

今後の予定
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​今後の予定

教会では 10:00~ ご祈念・毎日

日曜、祝日・教会の祭典日は、

祈念はお休みです。

8月

8月10日(土) 13:00

​ 生神金光大神月例祭

​8月12日(月) 10:00~15:00

  奥城開放から

  15日(木) 10:00~15:00

    奥城解放まで

8月21日(水) 13:00

  天地金乃神月例祭・月例霊祭

8月26日(月)    11:00​​

​     釧路布教116年祭・祭典

​     ~祭典終了後前庭で焼き肉パーティー

9月

9月10日(火) 13:00

​ 生神金光大神月例祭祭9月例霊祭

​7月22日(日) 13:00

  秋季霊祭・教会で・祭典終了後移動​​

​     同  15:00   秋季奥城(オクツキ)祭・

                      紫雲台墓地

アクセス

金光教釧路教会

教会長   江郷 繁樹

〒085-0833 北海道釧路市宮本1丁目5-22

JR釧路駅より

徒歩25~30分、タクシーで5~6分

釧路総合振興局の裏手に位置します

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