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釧路市の丹頂鶴

釧路教会

金光教

金光教とは
星

金光大神と天地金乃神ってどんな神

金光教は「 天地金乃神 生神金光大神 」を信奉する。

 

 江郷繁樹の独断と偏見で 11 

天地と繋がっているいのち(生命)・5

 

1855(安政2)年1月1日、文治は、大宮神社に参り、年神様、氏神様に早々御礼申しあげ。

私42歳厄晴れの祈念いたし。神主・神田筑前に願い、5男宇之丞の出生を、2日が8日ぶり、日合わせ、7夜に当たり。1月2日生まれにまつり替えを頼み、守り札を納めた。

 更に、1月4日、備後・鞆の津の祇園宮に参拝。神官、大宮家に厄晴れ祈念を願い、木札を受けて帰宅する。

 更に、1月14日、備中の、吉備津神社の詣で、お釜殿に「日供」の料を献じた。

(このお釜殿というのは、この社特有のもので、参詣した人が、お釜殿に日供の料を献じると、巫女がなにがしかの米を釜に入れ炊くと沸騰に連れて、重い蓋とお釜の間だから蒸気が逃げようと蓋を持ち上げる時に、牛の吠えるようなうなりを発するのを「おどうじ」と言っている。うなりがなければ、不吉とされる。文治の時は、2度のおどうじがあり、文治は、これまでの不幸を思ったか、2度もあったのは、これからは良いことがあるのだろうと思い、心も弾んだ)。

 そして備前、西大寺の観音院に詣でた。

 観音院では、この日、「会陽」の行われる日で、国家安全・五穀成就の祈祷を修め、その結願の日たる14日の真夜中に、この祈祷を込めた實木を投げ与えるのを、参詣の群衆が裸でもみ合い、競い取る神事で、文治も群衆の中に入った。終わって帰宅したのが、15日であった。

 (江戸時代は、今で言う岡山県は、備前、備中、備後に分かれていて、大谷は、備中の国の小村であった。ただし、明治維新の廃藩置県で、備後の国は、福山市や鞆の津などは広島県に分割されだが、12歳の時、養家の父母に、私は、神仏に参りたいので、休み日には、快う参らせてくださいとお願いしているが、備前、備中、備後国は、自由に参拝できたのではないかと思われます。おそらく、伊勢参りや、四88ヶ所いて、備後との藩境に近い大谷の地からは、備後の社寺は、行きやすい社寺が沢山あったと思われます。鞆の津の祇園宮も、備中備前の社寺も、藩社(県社)ではないと思われますが、この時、文治の気持の中に、備後と言えば鞆の津が、備中は吉備津神社が、備前は西大寺観音が思い浮かび、それぞれにお参りしたものと思われます。

 文治は、住宅の改築も終り、42歳の厄年も乗り越え、厄晴れのお礼をし、42の2つ子も、1月2日に祀り替えをしたことで、神様からおかげを頂いていく事だろうと、心機一転、春の農作業の準備に取りかかっていた。

 しかし、文治は4月25日の午後になって、何となく身に不快をおぼえ、奥の間に横たわった。翌26日になって、ものも言われず、湯水も喉を通らないようになり、医師に、「九死一生」の宣告を受けた。それでも文治は、「こころ実証、神仏に身任せ」で、妻には、自分のことは良いから、外の出て仕事をしてくれと、手まねで指図をしていた。

 身内の人たちも皆来てくれ、「小麦うち」を手伝ってくれたが、仕事の手は、自ずから鈍りがちになった。「文治は、もう助かるまい」と話しをする者もあり、「こんなことになるになら、宇之丞を、育てにゃよかったのう、死なれては、辛いものじゃ」と話し合う人もいて、何となく陰気なムードになりかけていたが、「それでも、仕事だけは片付けて、神様にお願いするよりほかに方法があるまい」と言い合わせた。

 4月29日の夜、上の間に身内のものが集まり、古川の、新屋の治郎を、先達に立てて、石鎚神をはじめ神々に、病気平癒の祈念をした。

 文治も、襖をへだてた、となりの部屋で病床にあったが、人々の志に感謝しつつ、皆の祈念に従い、神々に念じていた。

 突然、先達の治郎に石鎚神のおさがりがあって、

「建築、移転につき、豹尾・金神に無礼いたしておる」とあった。

 これにたいして、文治の妻も父(古川八百蔵)は、

「当家において、金神様におさわりはない。方角をみて建てた」と、応酬した。

 石鎚神はさらに、「そんなら、方角をみて建てたら、この家は滅亡になっても亭主は死んでも大事ないか」と、詰問した。

 八百蔵は応えられず、隣室で聞いていた文治は、義父は何を言われるのかと思い、

「ただいま、義父の言いましたのは、何も知らずに申しました」と、文治自身がものを言っているのに驚きながら、病床から「私、戌の年、年まわり悪く、建築をしてはならぬと申さらたのを、押して願い、方角を見、日柄を改めて、観て頂きまして、何月何日と申して、建てさせて貰いましたが、もとの狭い家を、大家に改築いたしましたので、どの御方角へ、どのようなご無礼をしておりますことやら、凡夫で、あい解りません。

 しかしながら、『御方角を見て、それで済んでいる』なだとは、もうとう思っておりません。以後、ご無礼のところは、ひらに、お断りを申します」と、ひらに金神様に詫びた。すると、「戌年はええ。ここへ這いながらでも、出てこい。いま言うた氏子の心得違い。その方は、行き届いておる。」

 「戌の年、当年42歳、厄年。厄負けせぬようお願いしたであろう。信心せねば、厄負けの年。5月朔日、験をやる」とお知らせがあった。

 はたして、文治は、5月4日に病気快癒した。

 1858(安政5)年12月24日、夕食後神に向かうと、向かっていた金神様と思っていた神様が、実は金神様ではなく、天地金乃神様であったことに驚いた。それでこれまで、

 ・天地金乃神様へのご無礼とはしらずに無礼していて、難渋したこと。

 ・先祖の無礼。

 ・17年間に7墓つかされた理由。

 ・実意丁寧神信心によって、夫婦が助けられて来たこと等について、これまで世俗に習い、方位・日柄を調べてきたこと

など、お知らせを受けた。

 その知らせは、翌安政6年、6月21日になって、寅年生まれの3男を宇之丞のことについて、病になってから最早56日にもなっていた。この度は病難ぞ、この子は生まれ年をまつりかえておろうが。 元に戻すかと詰問されている。

 文治は、天地金乃神様という神様は、どんなことでも見通しておられ、その恐ろしさを身の引き締まるのを感じながらも、「恐れ入りました、守り札を流し、もとの年に戻しまつる」と申しあげた。

 天地金乃神様は、「そんなら、もとの寅の年、男6歳、名も改め、『虎𠮷(トラヨシ)』と申すが良かろう」と更に続いて、「今日の朝のうち、四つまでに験をやる」と言われ、おかげ頂き下淵の田の草刈に皆で出かけた。
 

 

 

教会の願い
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江郷繁樹のあれこれ

コラム

- 学問と宗教者として生きる人生(布教者)-

金光教の教師になる時、ゼミの山下先生とは、何となく悶々としていた。おそらく山下先生は、江郷のヤツ、何で就職の相談に来ないのか。いよいよになって、金光教の布教者になると先生に解った時は、気まずかった。

 私は私で、お客の財布の紐を緩めるような学問は、本当に学問か。と言う想いがあり、こちらも気まずかった。ゼミの友人たちにも気まずさがあったが、友人たちは気持ちよく受け入れてくれて、卒後も随分長いことお付き合いさせて頂いた。皆東京近郊の会社に就職し、東京近郊に住んでいたので、私が上京する度に、飲み会を開いてくださった。昭和39年卒業生は、皆高度成長期の波に乗り、羽振りが良かった。一人貧乏くじを引いた觀があった。

 私は、学院卒後、昭和43年の春まで、金光教東京教会というところで修行させて頂いた。その間は、有人とも、金光教学生会で会っていた人とも、あまり会うこともなく、修行に専念していたのだろうか。その修行の様を、その当時を知る、東京教会に関係する先生方や、東京教会に参拝していた信奉者の方々に知れたら、一笑に吹き飛ばされるかも知れない。

 金光教教師は、在籍するどこかの教会に所属していないとならない規則がある。私の在籍は、金光教函館教会で、時の函館教会の教会長だった、矢代禮紀と言う先生で、学院卒業の時は、お前は東京教会に行け、だったのが、昭和43年の春には、私に帰ってこい、という手紙が来た。

 なぜ、矢代先生本人が、江郷に用事があるから帰してくれと東京教会長に言われなかったのか。私は、なんて東京教会長に、話したら良いのか、思いがつかず思案した。仕方なく、私に来た手紙を持って、教会長が一人になった時に会いに行き、手紙を差し出して、どうして良いかをきいた。東京教会長はその手紙を読み、静かに「お前は、函館教会の修行生だからな」と言って、手紙を返してくださった。

 いよいよ、東京教会を去る日、東京教会長夫妻が、昼食をご馳走してくだされた。雑談しながら、会食しながら、食事をしていたが、教会長が「江郷くん、東京教会に来て、何か修行になりましたか」と聞かれた。私は、モジモジしながら、どう答えようかと考えていたが、教会長が、「そうでしょう、私が、修行させて頂きました」と言われたのには、そこに穴があったら入りたい気持でした。しかし、この言葉は、私の人生の行動を考える指針のようなものになっていて、今でも何かをした時の反省の材料になっています。

 言えば、矢代禮紀先生も東大の哲学科を卒業され、東京教会の畑齋(ハタ・キヨシ)先生も、東大の倫理学部を卒業され、私のような落ちこぼれには、どう考えてもその思考能力は追いついていけないようだ。

 その矢代先生の命で、昭和43年5月21日釧路の教会に着任した。

 

つづく。

金光教釧路教会では、宗教、宗派を問わず、どなたでも参拝できます。

また、葬儀や結婚式、交通安全祈願など各種祭儀も行ってます。

​お気軽にお問い合わせください。

TEL 0154-41-1351

お問い合わせ時間 11:00~18:00

入信・脱退に関わる規則や拘束(特別な献金や修行の義務)はありません。

今後の予定
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​今後の予定

12月

12月10日(日)

12月21日(木)

12月31日(日)

13:00 

13:00 

13:00 

生神金光大神月例祭         

天地金乃神月例祭・月例霊祭

令和5年 越年歳

2024年(令和6年)

1月

1月1日(月)

1月2日(火)

1月10日(水)

1月21日(日)

10:30

15:00

13:00 

13:00 

令和6年 元日祭

教会閉門

生神金光大神月例祭         

天地金乃神月例祭・月例霊祭

教会では 10:00~ ご祈念・毎日

日曜、祝日・教会の祭典日は、

祈念はお休みです。

 教祖金光大神は、1869(明治2)年3月15日に、先祖の祭りを、9月9日10日にして、身内、親類、此の方へ参らせ。と神様からお知らせを受け、実行する。そして、1874(明治7)年旧暦の9月9日、新暦10月10日、先祖の祭と合わせて、金光大神祭りを致せ。提灯一張も灯さずとも、神が明かりを灯す。例の客だけいたし。と天地金乃神様のお知らせを受け、以後、生涯金光大神祭り、毎月の10日に金光大神祭り日として仕える。
伍賀慶春という方が、明治9年の秋頃、金光様の広前にお参りした時、いろいろ話をした後に、「旧暦と新暦があるが、先で両方が九日十日と連れ合っていく時がある。その時には、神上がりする」という話をしていた。伍賀氏は、何の話か解らずにいたようだが、はたして1883(明治16)年、新暦の10月10日が、

旧暦の9月10日になっていて、未8月21日早々お知らせ。今明日、飯、茶も食べず。菓子、水だけ。「人民のため、大願の氏子助けるため、身代わりに神がさする。金光大神ひれいのため」書きとめ。と、1857(安政4)年、巳10月13日から書き始めた「金光大神覚帳」を書き留めた。実に、教祖金光大神自身が帰幽になる、19日前のことであった。金光大神にあいまみえた、直信と言われる人々の驚きはいかばかりであったか、計り知れないものがある。
 

アクセス

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〒085-0833 北海道釧路市宮本1丁目5-22

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